カルマ曼陀羅:「視野」

今日は、毎月たのしみにしている中国茶の会に参加しました。

江西省の緑茶、「天香雲翠」から始まります。

山高林茂(山高く木々は茂り)の地で一芽一葉で作られたこのお茶は、派手さはないものの上品で優しい香りで深みのある甘味と旨味が奥へ奥へと広がり、とても大きな力を秘めていると感じました。

 

次は台湾は台中の大禹嶺熟香茶、「焙籠」という高度な技術で作られた特別なお茶です。

(「焙籠」とは、特殊な竹籠に入れた茶葉を炭火で焙煎する伝統的な方法で、劉宝順さん製の岩茶もこの手法で焙煎されています。)

先の緑茶できゅーっと一点に集中した氣が、上質な烏龍茶特有の開放感によってぱあっと広がり、そして何処へいくともわからないような僅かな不安を含んだような愉快さがあり、「今ここ」を離れて遊ぶようなスケールの大きなお茶でした。

 

お菓子は贅沢にも建仁寺に納められているものと同じ、京都は松寿軒の「あんころさん」です。

さて、このお店のオーナーであるS先生には、この時までもいろいろ興味深いお話をして頂いていたのですが、ここで以前のわたしのリクエストにお応え頂き、先月の「第三層」の話をもっと詳しくしてくださいました!

 

先月のお茶会の記事⇒http://ameblo.jp/allegretta/entry-11886061361.html

 

仏文学者の桑原武夫先生によると、人間の心の中は3層に分けられるそうです。

第一層が「近代志向」で、今の世の中の価値観に基づいた欲求で、お金儲けや出世などがその典型です。
第二層が「武家的儒教文化」で、今までの時代、特に維新前の文化が作りあげてきたものであり、親や先生、尊敬する人などから影響を受けて作られる部分です。「日本人としてのDNA」という言い方もできるでしょう。

 

そして第三層は「シャーマニズム」であり、自分でのぞきこんでみるより仕方のない奥底のもの、業といわれるものであり、それを「カルマ曼陀羅」ということばで表しているのです。

 

S先生は作家ですから、この第三層をどうすれば理解できるかというわたしの質問に、文学作品の中からそれを探して答えてくださいました。

 

それは、中里介山の「大菩薩峠」でした・・・

 

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、これは全41巻にも及ぶ未完の長編小説で、泉鏡花が絶賛しています。

辻斬りが主人公の話ですし、そのあまりの長さと題材の暗さに腰がひけ、わたしも読んだことはありません。

しかしS先生によれば、これこそがおそらく唯一無二の、人間の三層すべてを含み描き出している小説なのだそうです。

 

主人公の辻斬り、机龍之介は、多くの人々の命を奪っているにもかかわらず、それが「悪」だという意識を全く持たない人間として描かれているそうです。

彼をめぐるその他の登場人物たちも、皆「まとも」ではないのにどこか憎めず、いつ命をうばわれるとも知れないのに彼の世話をする女性も多く登場し(そして実際、最後はほとんど命を奪われるそうです)、その女性たちとの関係は、一切そんな描写はないのに、強烈なエロティシズムを感じさせるものなのだそうです。

 

別の言い方をすれば「悪縁の愛」を描いているのであり、彼女たちはその生を奪われることによって机龍之介の中に入りこみ、そこで生きているのだそうです・・・

にわかには理解しがたい、強烈な発想ではないでしょうか。

 

しかしこんな話なのに、主人公をはじめ登場人物が憎めないばかりかどこか魅力を感じてしまうのは、介山が彼らの三層を全て描きだし、彼らの「第三層=カルマ曼陀羅」が浮上させられ、それに共感できるからなのだそうです。

 

わたしは読んだことがないので、どうもよくわかりません。

けれどもこの先の説明は、何となくわかるような氣がしました。

 

ここで、維新前の伊勢神宮付近がどんな村だったかという話になりました。

約350戸というのは当時にしては大きな村で、しかもひじょうに「世俗的な」村だったそうです。

その雑踏の中に神宮があり、おそらく皆は遊びも兼ねて、一生にいちどは伊勢参りとここを訪れたのでしょう。

 

雑踏の中の神、そう、「カオスの中にこそ神は必要」ということを介山は書いたのでは、ということでした。

 

「カルマ曼陀羅」の「曼陀羅」とは胎蔵経のことであり、魑魅魍魎的なものと理解するのだそうです。

その魑魅魍魎がくっついて膨れ上がっているところを「スリム化」していくのが人生であり、「スリム化」して残るものは「神そのもの」では、ということです。

つまり人間は、「生きながら自分の神を探している」のだそうです。

 

この先まだまだ興味深い解釈が続くのですが、あまりに深く重いため、ここでは割愛することにします。

 

まとめると、「大菩薩峠」は命を食わなければ生きていけないという人間の業の深さ、カルマ曼陀羅を描き出したおそらく世界唯一の小説であり、読者は机龍之介を読み込むことによって自分の中をみていくことになり、そして自分を生かしきる要素は何かを問いかけていくことになるのだそうです。

机龍之助はある意味生きている存在ではなく(彼のとる「音無しの構え」というのはそれを暗示しているような気もします)、そんな彼の息を吹き返し辛うじて生かしている要素は「辻斬り」であり、未完なのでその結果はわかりませんが、それによって「カルマ曼陀羅」を解消しようとしているのだそうです。

では、生きている自分を生かしきる要素は何なのか、読者はしらずそれを自分に問うことになるのだそうです。

「カルマ曼陀羅」を削ぎ落とし削ぎ落としして残るものがそれであり、それは「神そのもの」なのではないでしょうか・・・

 

中里介山自身は、これを「大乗小説」と言っています。

つまり根底にあるものは仏教思想であり、個人をどこまで許容できるか、カルマ曼陀羅をいっぺん捨ててみようということかもしれません。

 

 

さて、お茶会のほうはいつも通り、岩茶で締めになりました。

今日は製茶年の異なる「白鶏冠」2種という、前期最後ならではの贅沢な飲み比べでした。

面白いけれども頭を使い、多少重くなった氣もすっと上へのぼり、いつも通り気持ちよくお茶酔いして、明るく軽く爽やかに、次の目的地へと向かったのでした。

 

今日の心理セラピーカードは「視野」でした。

ひとつのことを究めるのも素晴らしいことですが、たまにはいつも読まない小説の話を聴いたり、いつも飲めないお茶を飲んだり、日常とかけ離れたことをするのも「視野」が広がるようで面白いと思った今日の午後でした。

 

お読み頂きほんとうにありがとうございました。

日付かわってしまいました。今日も素晴らしい一日になりますように。